県大会を研究する'22
コロナ禍の県大会 その参
COVID-19の全数把握が9月下旬で見直しとなり、自粛要請も今後発出されない見通しとなった2022年の11月。各地では観客席も一般に開放されつつあったが、近畿は少し様子見の感があったと思う。兵庫も神戸支部や阪神支部では招待状が必須、県大会も同様で招待状が必要という予定であったが、直前に一般にも開放するというアナウンスがなされた。しかし、観客席が以前のように戻ったかというとそういう訳ではなかった。アナウンスが急すぎたのか、それとも2年のブランクは大きかったのか……?
今年は全14作品中、11作品が創作脚本。
しかし、去年までと打って変わって、COVID-19を扱った作品はない。その理由のひとつは、1年生・2年生の高校生活は“コロナ禍が日常”になっている現実があるように思う(もしくは、演劇の中でくらい、自由でいたいのかもしれない)。
一旦は減少し落ち着きつつあった感染者数も、徐々に増えるという不穏な動きを見せつつあった11月(正に第8波の入り口!)。これが来年、どのようになっていくのかは、まだまだ見続けていたいと思う。
個人的な最優秀賞!『(戯曲)ペルソナ』
2年ぶりに県大会へ戻ってきた東播工業。
“創部5年目にやることじゃない!?”
とんだステップアップを見せられた気分なのです!
2年前の県大会は生徒顧問合作の『旅立ちの日に』で挑んできた。演劇に興味がなかった創設メンバーが、3年目に出してきた答えがそれだった。よく演劇を学んだことがわかる、一場転換なしの良い作品だった。
そして、今回も生徒創作だったが、演劇の方向性が全く違う。Nさんが蒔いた種が、とても大きなことだったのだと思い知らされる(それがなければ、今回の作品はなかっただろう)。
ともかく圧倒される舞台。圧が強い。ほかの13本とは全く違う作品であり、作風であり。
ペルソナとは辞書で引くと「人・人格」であったり「劇などの登場人物」、「美術で人体・人体像」を指す言葉らしい。元々はラテン語で「仮面」「役柄」という意味から派生しているそうな。
なるほど。だから、パントマイムと語りで構成されていたのか。
これまでの舞台を考えると、Y先生は基本に忠実な演劇を指導されていたように思う。『旅立ちの日に』も、その系列にあった。それを変えるというのは大変勇気のいることだ。しかし、演劇は挑戦しなければならない。
もちろん『旅立ちの日に』も挑戦であったが、『(戯曲)ペルソナ』はもう1歩も2歩も踏み込んだ挑戦だ。それは一朝一夕にできることではなく、演劇の核がなければできないように感じる。
正直、「この5年分を含めて評価してあげてよ!」と言いたくなるような内容だった。
書かれたMさんも凄ければ、作品に正面から向き合った演劇部も凄いのだ。
もう一つの挑戦は『怪演』
演劇が人を描き、ある種の問題提起をするものであるならば、病気や障碍、差別やイジメなどとも向き合うシーンも出てくるだろう。そういった作品は珍しくはないのだが、挑戦には覚悟と勇気が必要となる。珍しくはないが、意外と演じられない種の作品でもある。
3年連続阪神支部より推薦された川西明峰も、覚悟を持って挑戦してきた。
その覚悟と挑戦は、ダメや批判よりも、まず称えるべきだろうと個人的には思う。もちろん、生半可な作品は周囲を傷つける刃となるだけに注意しなければならない。だからこそ、(つくる側は)最初に除外してしまう題材とも言える。また、(つくる側の)精神的負荷も大きくなる傾向にある。
演じられた『怪演』の難しさは、二つの側面を持っていることだろう。
ひとつは精神を患っている者。そして、もうひとつはその者を怪演する者として撮影する者である。これは非常に意味深な内容で、私たちは得てして「弱者をエンタメとして見ている傾向があるのではないか?」と突き付けられるのだ。すなわち、自分たちへの警笛である。
もしかすると、もっと観客を突き放してしまってもよかったのかもしれない。
高さが演劇の幅を広げると感じた『月の雫』
現世と黄泉路を舞台とした賢明女子の『月の雫』。
場所が転々とする作品がぶつかるのは、(劇場の)舞台は動かないという現実だ。映像と同じようなカメラワークはできない。
そこで賢明女子が採った手法は、抽象的な舞台とすること。具体的なものを一切置かないことで、その場所が道路や自宅、海辺、黄泉路と自由になる。
舞台の中央に、2段になった平台。
この平台によって生み出された高さが巧妙で、そのまま作品に立体感を与えている。
登場人物たちの心残りや、立場・状況の違い、強調など、とても効いてくる。まるでその平台も演じているかのように。
『月の雫』はとても難しい設定で、且つファンタジーに近い作品だ。ややもすると演劇が平板になりがちなのだけど、少しの工夫(これが意外と難しい)でぐっと作品性が増すと見せられたよう気がする。
『女子渡海床魅入』のルールづくり
「演劇のルールは自分たちでつくる」
作品を演じるときに、まず意識しなければいけないのは、その作品における演劇のルールだ。ここをキチッと押さえるか否かで、作品の出来は大きく左右される。
幕が上がるとはじまるのは観客との駆け引きで、観客は「この作品はどう観たらいいのか?」というルールを読み解こうとする。ルールは作品のリアリティと言い換えることができるかもしれない。このリアリティは作品としてのリアリティであって、(現実として)リアルであることとは異なる。
私は落語に無知なので、表記が誤っているかもしれないが、その点はご了承いただきたい。逆を言えば、落語をよく知らなくても、ルールの一つとして「落語がある」と分かるようにつくられているのが神戸常盤女子『女子渡海床魅入』の巧妙さだ。
まず、幕開きに鳴るのが落語の出囃子。落語をよく知るものはもうピンとくるだろうし、知らなくても和の音楽が鳴っているということでここは十分。なぜかというと、師匠と呼ばれる人物が随所で落語を噺すからだ。そこに落語があることにより、この和の音楽が落語の音楽であり、この作品のキーが落語であるということが示される。
いつしか教室が落語の世界となり、全員で船に乗るというのが、クライマックスだ。
これは先に言ったようにリアルではない。現実ではあり得ないだろう。しかし、『女子渡海床魅入』的にはとてもリアルなのだ。それはうまく落語というルールに観客を引き込み、フィクションにリアリティを与えているからに他ならない。
そして、当然、このクライマックスのリアリティのキーとなるのは、音楽と師匠なのだろう。それにより観客は「落語として見るんだな」と無意識のうちに納得させられる。
とても巧妙で、丁寧なルールづくりがされていると感じた作品だった。
観客席をもっとも沸かせた『リセマ達』
最後に紹介するのは、2023年夏の全国大会への推薦が決まった滝川第二の『リセマ達』。
時として演劇は、観客を巻き込み高揚していく。こればっかりは劇場で観ないとわからない感覚。演劇を観る醍醐味のひとつだと思う。
物語はループもの。照明と音響によりルールが提示され、そうであることがすぐにわかる(と書くと、照明と音響が重要ととられるかもしれないが、実は演技がベースに合って、照明と音響の相乗効果によりその演技をより引き立てている。つまり、ループが起こるときの演技は、意図的な演技がなされている)。
ループものも珍しくはない題材なのだが、演劇でやるのは大変だ。ひとつのミスが作品の崩壊に繋がってしまう。
そのルールが中盤、変則的な活用がされ、観客の脳裏に“いま何が起こっているか”を想像させる。とても楽しい展開。しかし、この頃から少し気づいていくのだ。“あれ?ちょっと新しくない?”と。
終盤、引き込まれた観客席が熱を帯びてくるのは、ある役者の演技によるもの。楽しく観せていたのは、そこへ行き着くための手段だったのかも知れない。その余韻が語ることとは──?(まだ上演が残っているので詳しくは書きません。この辺りのことは、ぜひ、全国大会での上演でお確かめください)。
「エンカ」ってなんだ?
今回訳あって現役生のTwitterを覗く機会が多くありました。そのTweetを覗いていると……
各支部大会からよく見るようになった「エンカ」という言葉。どうやら実際に支部大会を観劇しに行き、そこでお互い初めて会うということが起こっていた様子。
いつからこのような交流がはじまっていたのかは定かではないのだが、もしかしたらコロナ禍によって遮られていたことが、却って支部を超える交流を生んだのかも知れない。Twitterにスペース機能が追加されたことも、それに拍車を掛けている気がします。
さらに県大会では多くの「エンカ」が聞かれました。
淡路支部が孤立した支部である時代は終わったのかも知れない。
淡路支部だから……じゃなくて、求める気持ちがあれば、羽ばたいていける状況になっている。
県大会の観劇で止まらず、四国大会まで一緒に足を伸ばした(近畿大会は事前申し込みが必要で、観劇ハードルが高かった)様子を見ていると、一歩を踏み出す勇気がいろんなことを変えるのだなぁと改めて思うのです。
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