学校の外に出た高校演劇

高校演劇というジャンルは存在しない!

 先日、大阪のウイングフィールドで上演された、今からひっくり返すの『破廉恥パーティー』を観劇してきました。

 事前に得ていた情報はこれくらい。
 小林夢祈氏が中学演劇や高校演劇から見つけてきた10人の高校生が出演する。チラシもパンフもちゃんと読んでいなかったので、主宰・作・演出の小林夢祈氏自身も高校生だということに気づいたのは、観劇後、数日経ってからでした💦(つまり観劇時、小林夢祈氏を完全に大人の演劇人だと思っていました)

 高校演劇というジャンルは存在しない。

 少なくとも私はそう思っています。
 高校演劇として上演される作品の中には上質な作品も多く、中にはプロ顔負けの作品だってあります。演劇人として高校生は誰にも負けていない。また、内容も多岐にわたり、その意味、ジャンルとして高校演劇を括るのは無意味です。
 私も便宜上、高校演劇という言葉を使いますが、「高校生が演じる演劇」以上の意味はありません。
 何より危惧しなければいけないのは、「高校演劇」や「高校生」という言葉の副作用です。その言葉に甘んじるばかり、自らの可能性に気づかない、知らず知らずに封をしている高校生も多く見ます。大人だって要注意です!
 舞台に立つ者は皆、プロフェッショナルになる必要があります。演劇人に境界線はありません。
 例えば私たちは、オリンピックに出場する高校生を選手として区別するでしょうか? そう。区別することには全く意味が無いのです。

 ただ、高校演劇には若干の窮屈さはあるかも知れません。
 それは、部活動であるから学校に縛られてしまうこと。演劇界で普通にある客演も、高校演劇ではほとんど見られません。コンクールでは他校の生徒は舞台に立つこともできません。

 彼らが学校外を選んだのも、演劇の自由さを選んだからのような気がします。

演技に圧倒される!

 大阪の高校生たちの演技に圧倒されました。
 「兵庫県の高校生たちよ、大丈夫か?」と思うほど。

 部活動としての演劇の大きな魅力は、いつでも一緒に活動できること。仲間たちと共有する時間が多いことで、共通言語の構築が容易いこと。
 それは返せば、別々の学校からバラバラの人たちが集まって行う演劇の難しさに他なりません。

 演劇を行うには共通言語が必要です。
 ですが、彼らには共通言語はなかったはず。演劇や演技に対する価値観も、練習方法も、何もかもが違っていたはず。なのに彼らの演技は高いレベルでシンクロしている!
 これは小林夢祈氏を中心として、全員が「向かうべき場所」を共有していると感じました。それこそが共通言語になったのでしょう。
 演劇は、ある役者だけが秀でていても成立しない。上手い役者だけを集めても成立しない。役者の演技の方向性が違っていれば、ちぐはぐになってしまう。今回のこのアンサンブルの成立は、並大抵のことではないのです。
 その熱意と手腕には、脱帽です。
 12月5日に顔合わせ、その1ヶ月後の1月5日、6日に上演。「ウソだろ!?」と恐ろしくなります。

 正直なことを書けば、不安はありました。
 ぐだぐだの演劇を見せられる覚悟もしてました。
 プロの演劇だって「チケット代返せ!」と叫びたい作品はあるのです。何より私は、小林夢祈氏という人を全く知らないのですから。
 それが開演と同時に払拭されたことは言うまでもありません。

客席のない舞台は成立するか?

 今回の作品に客席はありません。劇場全体が、舞台であり客席なのです。
 上下3間×奥行き5間ほどの空間(小劇場がいかに小さいか、というのがわかると思います)に、学校の机とイスが並べられています。観客も役者もその席に座るのです!

座席表

 私の座席は12番。
 少なくとも1番、13番、5番、10番は役者の席でした(客席は20席だったよう)。チケットは前売りで完売していたのですが、当日は教室後部に立ち見の当日券席が設けられました。

 直前に「新感覚イマーシブシアター(没入型体験)を目指している」、「一般的にイメージする演劇ではない」という案内が届きました。

 個人的に演劇は、「役者の感情(心)に触れるもの」だと思っています。
 その意味で言うと、『破廉恥パーティー』において、この形態が良かったのか? というのは少し疑問が残ります。

 私自身、舞台上に客席があるというのは初めての経験です。
 観ていて第一に感じたのは、「意外と視覚が制限される」ということ。映像作品のようにカメラワークがあるような感覚に陥ります。

 演劇の魅力のひとつは、視覚が自由であること。
 役者は「今はこっちを見て!」と演技するのですが、そちらを見ない自由も保障されている。私は今見て欲しい役者よりも、そのシーンで聞き手に回っていたり関係のない(気になった)役者を見ていたり、装置を見ていたりすることが多々あります。
 だけど、舞台上に客席があると、それが難しい。
 こちらの視線が役者にモロバレなわけです。「今こっちを見て!」と演技している役者以外を見ることは恥ずかしく、勇気が要ります。作品は『破廉恥パーティー』なわけですが、私は破廉恥になれなかったのです💧

 300席程度が、演劇の限界サイズでしょう。役者の「生」が伝わる範囲がそれくらいだと。
 小劇場演劇は、舞台が間近で、視覚が自由で、客席の温度(役者と観客の呼応)も感じられ、なおかつ、上演されている世界に没入する感覚に陥ります。かぶり付きの席なら尚更です。
 ところが、そんな風には没入できなかった。役者が間近にいることと、心を動かすことは、別のことのようです。もしかしたら、間近の役者たちに振り回されていたのかも知れません。客席が舞台上にあることで観客が役者に呑み込まれ、役者と観客の呼応もなかったように感じます。
 この作品の場合、俯瞰で観られた方(従来の形態)が、心を揺さぶられたのでは? という思いがぐるぐるしてました(そういう台本のような感触があり)。

 私たちは普段、フォーカス(カメラワーク)を考えて舞台を構築します。
 観る側としてもセオリーに従い観ている部分があるわけで、このような形態には、何かブレイクスルーが必要なのかも知れず……。

 第二に感じたのは、観客の顔が見えると言うこと。
 昨夏の『わたしの星』のように、舞台を挟んだ形での対面客席というのはままありますが、観客の顔は気になりません。舞台に心が惹きつけられているからでしょう。しかし、舞台の中に客席があると、どうしても観客が見えてしまうのです。
 「あれ? あの人って演劇人じゃなかったっけ……?」みたいに、気になっていました。

 観客は、役者たちの演じる世界の「動かない物」として舞台に佇んでいました。故に、役者からは見えないものとして、徹底的に無視されます。せっかく教室があって、座席があるのに、舞台空間が半分くらい死んでいる印象を受けます。
 観客を「我関せずのその他大勢のクラスメイト」に見立てたりだとか、観客席も使う演出があっても良かったのかも知れません。ただ、そういう公演にするのなら、舞台上の客席と通常の客席を用意して、観客に選択肢を与える必要はあるのかも、と考えたりもします。

 ひとつ思い出したことがあったのです。
 私が初めて演劇部にかり出されたとき、目の前数十センチで通し稽古を見せられました。それが初めての演劇。だけど、私は直視できなかった。あまりの役者たちの真剣さに(それは、『破廉恥パーティー』の役者たちに劣るとも勝らない熱意でした)、恥ずかしくて見ることはできなかったのです。
 そういう観客もいるかも知れない。
 舞台と客席の距離は、役者の熱を冷ます距離として作用する一面もあるのです。

 それでも、無視されるが故の面白さもあって、役者同士が自分を挟んで会話するシーンなどもあるわけです。まるで、自分に言葉が投げかけられているようで、それはそれで普通はない感覚なわけです。

 そんなことがぐるぐるしてる。

ラストはあれで良かったのか?

 この作品の根幹には、小林夢祈氏の感じる疑問がある気がします。理不尽と言い換えることができるかも知れません。タイトルこそ『破廉恥パーティー』ですが、決して破廉恥なものではなく、現実と地続きの作品なのです。

 ちょっとしたボタンの掛け違いで、最後は、殺し、殺され、どんどんクラスメイトが死んでいく。そして残るのは二人の男女(しかし、外側には日常がある)。
 女が銃の引き金を引いたのか引かないのか、わからないまま暗転となり終演。

 ここで、こういう余韻を残したことが、引っかかります。
 いままで魅せてきたことと、違うような気がして。そういうことじゃなくて、もっと何か別のことのような気がして(すみません。それが何なのかは具体的に説明できません……)。

 何だろう?
 もっと気持ちの悪いラストを期待したのかも知れません。

 もっと気持ち悪くしてくれ! と。

 いやいや、より率直に書くなら、「何かが欠けているような惜しさ」かも知れません。
 「これだけの演技があって勿体ない」という思いは常に持っていたのです。何か、あと一歩踏み込めていない感じ。もっと見せつけて欲しい。
 言い換えれば、知らぬ間に懐に入られ、サッと切られるか、グサッと突き刺されるか。

 そんな「生」の感覚が欲しかったところです。

柴幸男さんがヒカリに選んだわけ

 今回の舞台、昨夏『わたしの星』を観に行っていなければ、知ることもありませんでした。
 もうひとつ書くならば、そのとき出演されたある役者のある言葉がなければ、彼女・彼らのその後を追ってはいなかったでしょう。縁とは不可思議なものです。

 『破廉恥パーティー』には、『わたしの星』ヒカリ役の山下萌さんが出演されていました。
 観ていてなんとなく、柴さんがヒカリに彼女を選んだわけがわかるような気がしました。言葉にすれば「演技が成立してる」かな。そんなの当然すぎるのだけど、自分と乖離した人を演じるのは難しいことなのです。

 そういう意味では全員の「演技が成立して」て、自己満足に陥らなかったのが、『破廉恥パーティー』の勝機です。

 個人的にはミルクをやってる彼女も好きでした(単に隣の席だったからかも!?(笑))。

↑これが私と同じ視点。

今からひっくり返すに最大級の称賛を!

 色々書きました。
 正直、甘い部分もあったと思います。
 ですが、この挑戦をした小林夢祈氏率いる「今からひっくり返す」には、最大級の称賛を送りたいと思います。凄いよ、君たち! と。
 応援している大人たちがいることにも、希望を感じます。

 ここで「高校生」を出すのはどうかとは思うけど、プロが上演するより相当にハードルが高かったはずです。
 それができた彼らは、ある意味、幸せなのだと思います。
 演劇部に属していても、そんなことはできない人が大多数だから。

 ぐるぐるしているのも、作品が凄かったから。
 私にできないことをいっぱい見せつけられた。だから、私の糧にするために、ぐるぐるしてる。私だって演劇を諦めたわけじゃない。
 そして今回は淡路支部を突っ切って、「兵庫県の高校生が観たらどう思うだろか?」というところまで、持って行かれたのです。

 挑戦しないと次には繋がらない。
 様々な意見はあるだろうけど、今後彼らがどのようなことをしていくのか、楽しみでなりません。

※公演写真付きのTweetを追加しました。