県大会を研究する'20

どうしても観に行きたかった2020年の県大会

 誰もこんな2020年が来るとは予想していなかった。
 COVID-19が席巻した世界。
 私たちの日常が、如何に脆いか。卒業式や入学式は消し飛び、大学生に至っては2020年がもう暮れようとしているにも関わらず未だに学校へ登校したことのない人たちもいる。

 高校演劇的には3月の一斉休校を発端に、春の全国大会は中止。阪神支部の春季発表会やアイフェス!!など同時期に予定されていた公演はすべて吹き飛んだ。兵庫県では3月末は秋のコンクールシーズンと同じく、多くの新作が上演されるシーズン。書き下ろされ、練習してきた多くの作品たちが人知れず、何処かへ消えていった……。

 夏の全国大会もいつも通りとはいかなかった。
 第44回全国高等学校総合文化祭こと2020こうち総文は、WEB開催となった。
 全国大会は映像配信となり、審査も行われなかった。中にはその映像収録すら行えない演劇部も出てきてしまった。

 政治をはじめとする、大人たちの混乱はそれ以上だろう。

 それでも秋はやって来る。
 世界はまだまだ元には戻らない。そんな中でも、県大会は開かれた。観客席は関係者のみと閉ざされてはしまったけれど。

 私は、今、高校生がこの状況(何も解決していない、混乱の最中)をどう思っているのか、とても知りたかった。心に機敏な演劇部の部員たちなら、どんな作品を描くのだろうか?
 自分たちの状況、大人たちの状況、日本の状況、世界の状況……etc.etc...
 それが、2020年の県大会をどうしても観たかった理由だ。

“今”を描くということ

 演劇をつくるということは、今を捉えるという側面があると個人的に思っている。
 どんな作品(古典劇であれ、創作劇であれ)をつくるにしても、“今”という状況は複雑に絡み合ってきて切り離すことはできないと。

 今大会のキーワードのひとつは“今”であったように思う。

県立舞子高校『友よ、今度はいつ会える?』

 県立舞子の『友よ、今度はいつ会える?』。

 太宰治の『走れメロス』をモティーフとした作品であることはすぐにわかったのだが、ラストまで何をやっているのかはわからなかった。『メロス』なのに今を思わせる台詞があったり(「自粛」のような言葉であったと思う。失念してしまった)、何よりもその一人芝居が雑なのだ。“なんだこれは?”という疑問がどんどん増えていく。

 ところが、これがラストになって一気に氷解する。

 実はこの『メロス』は劇中劇で、今まさにスマホを使って配信していたのだ。それも、おそらく自分の部屋から配信する、たった一人の卒業公演。彼はCOVID-19の被害者のひとりだったのだ。
 逆にあの雑さが、彼がどんな思いで今日配信したのかということを考えさせる。

県立川西名峰高校『バカになれ(仮)』

 県立川西名峰の『バカになれ(仮)』は、「しょうがない」がキーワードだった。

 この春以降、どれだけ「しょうがない」という言葉を聞かされたのだろうか。その思いが上手く作品と融合して、舞台になっている。前に出すぎることも、隠れてしまうこともない。
 つまり、台本や演技・演出を超えたところでこの作品は奇跡のように成り立っている気がした。
 自分たちのやりたいことに一切妥協することなくふんだんに盛り込んだ上で、“今”を描ききった。それは、この秋までの共通体験によるところも大きいだろう。
 しかし、逃げずに“今”と真正面から向き合ったことに、この作品の意味はあるのだと思う。

 演劇の評価は難しい。役者が上手ければいいというものでは決してない。
 県立舞子と県立川西名峰は、“今”を捉えることが他よりも上手かったのではないか? そんな上演だった。

ひとつの型の中の演劇

 “今”がひとつのキーワードとなった県大会ではあったが、大半を占めたのは例年通りの演劇作品たち。
 ただ、こうなってしまった2020年で演じるには、少し引っかかる作品や部分もあったりする。特にCOVID-19などない前提での将来への悩みなどは……(それらは私がこの状況が1年では終わらないという思いを抱えているせいもあるのだろう)。

県立加古川東『ぶれている、夏』

 そんな中でも好きだったのは県立加古川東の『ぶれている、夏』。

 何かの事件が発生し、人間関係が壊れ、それをどうにか解決していくというのは、良くも悪くも演劇のひとつの型だろう。『ぶれている、夏』は、典型的な物語の型に則って書かれた作品と言える。

 この作品は、写真部のお話で登場人物は3人。写真が好きで最も熱心でフィルムが好きな女子、写真にそれほど興味はないけれど被写体を捉えるのが上手い女子、そして物静かな女子。仲の良かった3人に、少しずつすれ違いが生じていく。その火種は、以前からあったのだ……。

 多くの作品では、最終的にこのすれ違いを解決させてしまう。

 解決するのが悪いわけではないが、この作品では最終的に3人が会わないことで奥行きが広まったように感じる。それは、誰が誰にとってどんな関係ということが作品によって決められるのではなく、観客の心に残るということ。その部分を描かないことで、より身近な問題として提起されたように思う。
 そしてこの作品の凄いところは、このまま3人がすれ違ったままだとしても、いい関係であり続けるんだろうなぁと、言葉としては矛盾しているが、そんなキレイな終わり方だったこと。そこはなかなか真似をしても書けないだろうし、(2日目の上演であったので、講評は聞けていないのだが)もっと評価されて良かったポイントだ。

自分で現像したから長いフィルムなのだ!

 余談にはなるが、フィルム好きの女子は熱心にフィルム(カメラ)の良さを語る。そこまで熱心に語るか! と思うほど(笑)。その「好き」という純粋さが、あのラストのキレイさを生み出していたのかも知れない。
 極めて個人的なことだが、フィルムが2020年の高校生によって語られることに感動を覚える。彼女らの近くにまでフィルムは復活してきているのだろうか? と(2002~2004年頃生まれの彼らは、撮られた写真はすべてデジタルであってもおかしくない世代に突入している)。

東播工業の成長

 2年連続で最優秀賞を獲得し、兵庫県の高校演劇界に嵐を巻き起こしている県立東播工業。みんなの注目の的! なのに「成長」とはこれ如何に?

 兵庫県で最優秀賞を獲るのは簡単ではない。
 それを連続して成し遂げているのに、成長はあるのか? そう問われれば、私は「ある」と答える。
 結果から先に言うと、東播工業は驚異の3連覇を成し遂げた。

 1年目は籔先生が勝ち得た最優秀賞、2年目はみんなで獲った最優秀賞であったとしたならば、3年目の今年は生徒主導で獲りにいった最優秀賞ではなかろうか。つまり、同じ最優秀賞でもこの3つの最優秀賞は全く意味が違う。

 籔先生にお願いされて演劇をはじめた彼らが(少なくとも1年目は演劇になど興味がない様子だった)、遂に自ら創作台本を書くところまで来たのだ。書いたのは立ち上げメンバーの3年生で、他の3年生も役者・スタッフで参加していた。
 映画『アルプススタンドのはしの方』の公開で一気に有名人となった籔先生は、ラジオかどこかで「高校演劇荒らし」と評されていたが、私に言わせれば違う。演劇を楽しんでいるのだ。顧問の先生が楽しんでいるから、部員たちが演劇をどんどん好きになる。それが東播工業の姿なのだと思う。

 その意味では、上演された『旅立ちの日に』は、彼らの“今”を十二分に投影した作品だったのだと今にして思う。
 COVID-19が席巻した世界ではなく、彼らにとっての演劇の渦中の“今”、演劇のリアルをぶつけていたのだと。

県立東播工業高校『旅立ちの日に』

 今年は変則的に、最優秀校2校のうち1校しか近畿大会へは進めない。これもCOVID-19の影響。
 最優秀賞を獲ったけれど近畿大会へ進めなかった彼ら。けれども、彼らが得たものは、他の演劇部よりも大きいのかもしれない。

 立ち上げから3年目、「部」と記されていることに密かに嬉しさを感じる私。
 立ち上げから連続してその姿を追える機会はそうあるものではない。1年目、2年目、3年目と彼らをずっと観られたことは得がたい経験であったし、そんな経験を与えてくれた彼らには素直にありがとうと言いたい。

ヒロシマのインパクト

 幕開きの「昭和17年、広島」というナレーションだけで、身構えてしまう。

 『父と暮らせば』などヒロシマを扱った作品は、少なくはないだろう。だが、完全に不意打ちだった。なぜなら、今まで兵庫県大会で観ることはなかったからだ。戦争を扱った作品も記憶になく、予測すらしていなかった。
 戦時中の広島といえば、昭和20年8月6日の原爆投下だ。そのことが描かれるのかはわからない。わからないけれど、私たち日本人は、この人たちにこのあと訪れる運命を知っている……。
 こんな感覚での観劇は初めてだ。

 タイトルは『朝顔の咲く線路』。上演するのは国立神戸大学附属中等教育学校。この演劇部の名も初めて聞く。

神戸大学附属中等教育学校『朝顔の咲く線路』

 観ながら“何故この題材を選んだのだろう?”という疑問は浮かぶ。それは演じる彼らへの純粋な興味だ。肯定的な問い。
 舞台装置は市電の車両のみといった簡素なもの。だけれども丁寧につくられていて、その意識は隅々にまで行き渡っている。幕開きの市電を運転する女学生の所作に、思わず作品へ引き込まれてしまう(演技や台詞のひとつひとつも、全般に於いてとても丁寧だった)。

 観終わってまずの感想は、“こういう作品も上演していかなければならないんだろうな”という想い。

 当時の女学生の日常が丁寧に描かれる。戦争中にも日常はあったのだということ。人の営みはあったのだということ。この作品の中心は市電ではない。あの時代に広島を生きた女学生たちだ。
 戦争、原爆、震災、津波、COVID-19……それらだけが特別なわけではない。日常の隣り合わせとしてあるものだ。

昭和20年8月6日、広島市に原子爆弾が投下された。

 専門審査員たちの評は辛かったが、正直、私にとっては最優秀賞だった。
 あらゆる意味で、「絶句」した作品だった。

 この『朝顔の咲く線路』は、創作脚本吉山賞を受賞した。
 機会があれば読んでみたい台本だが、やはり吉山賞をまとめた本が欲しいと思うのが本音のところ。吉山賞に選ばれる台本は、とてもレベルが高い。

“今”、高校生は何を思うのか?

 2020年。いくらかの不自由は感じつつも、今から目を背けているようにも、楽観的に見ているようにも感じた。もしくは、認めたくないあまり、物語<フィクション>の中では無かったこととしてしまいたいのかもしれない。
 個人的にはもっと大人へ怒りをぶつけるような作品があってもという気持ちがある。そういうストレートなものが無かったのは、そこは高校生がもっと大人なのか、書けない状況があったのか、そんなことは思いもしなかったのか……?
(もちろんこれは個人的な不満に近いもので、彼らの作品のひとつひとつに間違いなどあろうはずもないのです。あしからず)

 その意味では、最もこの問いに答えてくれたのは神大附属中等なのかもしれない。“今、これをやりたい!”という絶対的な気持ちがないと、できない作品だったからだ。
 ただし、もしCOVID-19が存在しない2020年だったとしたら、それを一番感じたのは県立伊丹北の『Qいつかとサス明かり』や県立西宮今津の『うまずたゆまずお馬さん』だったのかもしれない。本当に難しい。

県立伊丹北『Qいつかとサス明かり』

 実は今を捉えた舞子も川西明峰も、“今、何を思うか?”というところまで踏み込んだ作品ではなかった。今を捉えるという機敏さだけでは、まだ足りない。

 兵庫県の最優秀賞の壁は高い。