県大会を研究する'21

コロナ禍の県大会 その弐

 2021年も制限された県大会になるだろうな、とは、2020年の時点から思っていた。
 歴史を振り返ると、スペイン風邪は終息までに3年ほどかかっていたからだ。

 コロナ禍も2年目。昨年ほどの混乱もなく、近畿大会への推薦校数も例年通り2校に戻った。

 しかし、“それで良いのか?”という思いはある。

 コンクールの開催は、素直に喜ばなければならない。それでも公演の機会はまだまだ元に戻らない。COVID-19の感染状況は落ち着いていたが、客席は一般には(上演校以外の演劇部の高校生にも)開かれなかった。

県大会の客席の様子。

 そして、今年もロビーに講評用紙の姿はない。
 昨年はアンケートを上演各校により設置された回収ボックスに投函する方式。
 今年は紙ですらなくなって、パンフに掲載されたQRコードからGoogleフォームで感想を投稿する形に変わっていた。

 コロナ禍が普通という世代が、もう生まれている。

 高校演劇のコンクールは、年に1度きり。
 時期は地方によって違うのだが、兵庫県の場合は秋11月。多くの演劇部員は高3の夏に引退するので、コンクールに挑戦できるチャンスはたったの2回。もしも、来年(2022年秋)パンデミックが終息して世界に日常が戻っていたとしても、高校演劇の世界に多くの3年生はいない。
 演劇は制約の中でつくられるものだが、観客に観てもらえない演劇って……という気持ちにはなってしまう。。。

パンデミックが普通という状況

 演劇というのは、特に創作劇は、今を映す鏡なのだとは思う。

 そう考えたとき、マスクをしない演劇というものに、少し違和感を覚える。それは、今と地続きの世界ではなく、SFの世界(パンデミックが存在しないというサイエンスフィクション)となってしまうからだ。
 実際、高1・高2の現役生は、コロナ禍ではない高校演劇の経験はない。
 そして、兵庫県で生まれる創作劇の多くは、学校生活を拠り所にしている。

 昨年ならいざ知らず、もうこのCOVID-19のパンデミックが一過性のものではないことは、みんな承知しているところだろう。

『リア獣、青春しろ』は、「コロナ後の世界」という設定でマスクを回避した。

 もちろん、「マスクをしなければならない」だとか「COVID-19を扱ったものでなければならない」とかいう馬鹿げた制限はない。そういう自由を演劇は保障しなければならない。
 自分たちのやりたい作品をつくる。
 だから、どんな作品を上演しても、それは間違いじゃない。

違和感を持った審査結果

 部活動の原則禁止から始まった2学期。
 部活動ができるのは大会4週間前からとされ、9月末に緊急事態宣言が解除されてからも、いつも通り(無制限)に活動できるわけではなかった。
 三密といわれている「密集」「密接」「密閉」は、演劇にとって大敵。発声練習すらどうやっているのだろう?そんな疑問は当然、頭に浮かぶ。

 昨年は“いつも通り”を知る上級生がいたけれども、今年はいない。
 充分な活動ができない中、大会はどうなるんだろう?という不安はあった。

14作品中、ほかとは違った輝きを持った生徒創作作品『湖上の蝉』。

 が、蓋を開けてみれば杞憂であったかのように、力作揃い。

 みんなどうやって活動してたんだろう?

 良い意味で、最優秀賞の予想がまったくできなかった。予想ができないばかりか、自分にとっての最優秀賞すら選べなかった。どの作品が最優秀賞に選ばれてもおかしくない。そのくらい、(個人的には)切磋琢磨していた。

大人数演劇が復活した『WIND』。

 それでも、発表された審査結果には違和感があった。

 今年は昨年に比べてCOVID-19に関係する作品が増えた。なのに、そういった作品はいずれも上位4作品に選ばれなかった。
 この事実に、高校生たちと大人との間に乖離があるように感じてしまった。
 いや、乖離は以前からあったのだろうが、それがより広がったというか顕著になったというか(実際、高校生による最先端の演劇を、専門審査員が理解できていないことも過去にはあった)。大人たちにとってはまだまだコロナ禍は非日常なのかもしれないが、高校生たちにとっては既に日常なのである。そのことを大人はちゃんと理解しているか?大人の願望が入った審査結果になってやしないか?

 これは単に私が個人的にパンデミックの状況にこだわり過ぎているからか?それとも、その描き方ではまだ弱いというメッセージなのか……。

マスクをした演劇の難しさ

 演劇はマスクを嫌うと思う。
 考えられる理由は2つあって、1つは表情が見えないこと。そして、もう1つは声が通らないこと。

 ただ、1つ目の表情が見えないことに関しては、まったく気にならない。

 2年近くのマスク生活は日常を変えた。
 それは、マスクをしている人に違和感がなくなったということだが(逆に日常でマスクをしていないことの方が違和感になってしまった)、そうすると、あれほど大事に言われていた「表情とはなんだったのか?」という疑問が湧いてくる。
 その答えは、私たち日本人の生活の成り立ちにポイントがありそうだ。

『あの宇宙の向こうに…アステール【改】』。

 欧米人は、マスクをしている人には恐怖を感じるそう。

 欧米人は日常的に相手の口元を見ているらしく、表情を読み取るにも、言語を聞き取るにも、まず口元となっているらしい(日本語と比べて、西洋の言語は顔の筋肉を使うらしい。フランスでは教師がマスクをしていては子どもがフランス語を習得できないというような意見の報道も見たことがある)。

 それに対して日本人は、相手の目を見ている。

 「相手の目を見て話しなさい」と教えられたり、「目は口ほどにものを言う」という諺があるように、目元から表情を読み取ることが科学的にも分析されているそう。確かに、相手の話を聞き逃すまいと必死になっても、口元に注目して読唇術を使うようなことはない。
 考えてみれば、日本のマンガやアニメでも目の表現は感情を表すために自然と使われている。

 マスクをしていても演劇が成立するのは、もしかすると、日本人独特の感覚なのかもしれない。

 そうなると、問題となるのは2つ目の声が通らないこと。
 これは言い換えると、単純にマスクというフィルターを通すので、声量が落ち発音が不明瞭になるということになる。

 もしかすると、全員が終始マスクをしているということであると、それほど気にならないのかもしれない。
 だが、コロナ禍の日常でも四六時中マスクをしていることがないように、マスクをしている役者としていない役者というのが、(時には同時に)作品中に出て来てしまう。その瞬間、(声量差があるため)マスクをしている役者の声が一気に聞き取りづらくなる。

 しかし、だ。ここに書いた演劇づくりにおける問題は、既に日常のリアルでもあるのだ。
 先に「高校生たちと大人との間に乖離があるのではないか?」と書いたが、その意味で言うと、ここに書いたことはすべて無意味なことなのかもしれない。それが“今”なのだから。
(とは言え、単に生活を舞台の上に上げればOKということではなく、そこには何らかの新しい演劇的な昇華は必要だとは思われるが……)

マスクを外すということが“劇的”になる『たからもの』。

 2021年の秋現在、あまりにもマスクは日常に溶け込んでしまった。
 こんな描写があった作品はなかったが、“同級生の素顔を知らない”ということも日常になってしまっているだろう。
 明らかに2020年を区切りに、世代間の価値観はガラリと変わったように思うのだ。
(逆に、マスクを問題提起するような作品があっても良かったのでは?とは思ったりもするけれど)

全国大会への切符を手にした県立伊丹

雨がとても綺麗な『晴れの日、曇り通り雨』。

 近畿大会では県立伊丹『晴れの日、曇り通り雨』が全国大会へと推薦されることになった。顧問のG先生は「飛び道具なしで全国」と言っていたが、かえってそれが良かったのではないかと個人的に思っている。
 県大会の審査について書きはしたが、この作品が最優秀賞に選ばれて近畿大会へ推薦されたことには異論はない。全14作品中(加えて、過去の県立伊丹の作品と比べても)、もっとも丁寧に描かれていた作品のように感じたからだ。
 ここでいう丁寧とはどういうことかというと、シンプルということだ。とてもシンプルに「友達とは何か?」という大問題が描かれる。もちろん、台詞でそういう問題提起がある訳ではない。シンプルに人間関係が描かれるからこそ、見えてくる奥深さがある。

 果たして、県立東播磨の『アルプススタンドのはしの方』とはまったく違うこの作品が、全国の舞台でどのような評判となるのか、それが楽しみでならない。
 上演は7月31日、日曜日。場所は東京(とうきょう総文)、中野のなかのZERO。観に行きたいなぁ。。。

 2022年1月に書いていた原稿に加筆修正して公開しました。
(いつもと違い、作品個別の評を書くことができなくて申し訳ありません。)