映画版『アルプススタンドのはしの方』で気づく、東播磨版の凄さ。

 映画『アルプススタンドのはしの方』を観てきました!
 もちろんこれは、2016年~17年に県立東播磨高校演劇部が演じた同名作を原作とした映画です。

 観ていて、どうしてもヒガハリ版と比べてしまいます。
 でも、本当に比べるべきは、浅草九劇で商業演劇として上演された2019年版なのでしょう。2019年版は、映画版の脚本を担当した奥村徹也さんが、演出をしています。当時のチラシを見ると、キャストも増えていますから、台本にも手を入れていることが伺えます。

 例えば、「中屋敷法仁が『贋作マクベス』を書いたんはさ、高3のときやねん」云々というやりとりがあります。
 このシーン、映画版ではサラッと流される。
 ヒガハリ版ではとても重要なシーンなのだけど、そうではなくなっている。もちろん、映画の流れ上、重要でなくなったということもあるのですが、キャストが演じられないから変更された可能性も否定できません。それは、(映画と)ほぼ同キャストで上演されている2019年版を観ていないので、私にはわからないのです。

 ただ、演劇に寄り添いながらも、映画(映像)でしかできない演出で魅せていきます。
 演劇は「観客の心に想像させる」のですが、その部分を映像化して、映像的手法で引っ張っていきます。やはり、演劇と映画(映像)は別物。そのあたりは、演劇をつくるものはよく承知しておく必要があります。
 その意では、(映画は)演劇的に丸々参考になると言うことはありません。

 さて、先述したシーン、「中屋敷法仁~」云々ですが、映画版を観たことでこのシーンに隠されたヒガハリ版の秘密に気づいてしまいました。
 それは、『アルプススタンドのはしの方』は、ヒガハリ☆マックスが上位大会(少なくとも近畿大会以上)を狙ってつくった作品で、その決意が表れていたシーンだったと言うことに!

 もちろん、目標を「全国大会出場」と掲げる演劇部は少なくないですし、それ自体は珍しいことではないのかも知れません。しかし、この作品を書いた籔先生は、上位大会への進出の難しさを重々承知した上で、且つ、上位大会へのルートをキチンと見据え、この作品でヒガハリを導いたのだと。
 そのメソッドを的確に持っていることが、単に目標を掲げるだけに終わる演劇部との違い……。

 ヒガハリ版で宮下役を演じた、栗﨑さんがその辺のことも証言していました。「全国へ行くぞ」と籔先生は宣言していた、と。

 パンフレットで籔先生はこの作品を思いついたキッカケを綴っています。
 そのキッカケとなったN高校の甲子園出場が、2016年春。栗﨑さんは「夏の甲子園にみんなで(練習のために)応援に行った」と言われているので、2016年の夏休み序盤には台本はできていたのかも知れません。
 当時のヒガハリの1、2年生は県大会も未経験、近畿大会へ行ったのも籔先生が着任する前のことだから、きっと部員たちはあまり真剣に受け止めてなかった気がします。「本当だったんだ」と気づくのは、どのタイミングだったのでしょう???

 個人的には、ヒガハリ版が好きです。
 映画版は(個人的に)先生が出てきたことによって、関係性がよくわからなくなってしまった気がします。何より、「悔しい」という(ヒガハリ版での)安田の最後の台詞がこの作品を象徴しているように感じてならないのです。
 あのときの悔しさは、舞台上の4人が共有していたのみならず、観客も共有し、「中屋敷法仁~」云々の想いがそのまま、安田と田宮の今後を想像させたからに他なりません。
 なぜなら、直前まで観客も「いける!」と信じていたから。

 このインタビュー(栗﨑さんの話がはじまるのは4分半頃からです)でわかるのは、「真摯に舞台に向き合えば、結果は出る」という基本的なことです。とても参考になる内容だと思います。
 あなたの演劇部は、このように細部にまで気を遣って演技をする(または演出、または音響、または照明、etc.etc...)ことができていますか?
 表面上の楽しさだけを追い求めていませんか?

 自分自身の可能性に、気付かずにいませんか?

 今回の映画化があって、彼女たちが演劇を続けていることを知り嬉しく思いました。続けているということは、演劇の苦しさも認めつつ、それを上回る愉しさがあることを知っているに他ならないからです。
 そのキッカケのひとつは、籔先生であり、『アルプススタンドのはしの方』という作品だったのでしょう。作品づくりは一期一会なのです。

 だからこそ、上演の機会は大切にして欲しい。
 そして、周りの大人たちにも高校生たちがそうできるよう、サポートして欲しいと願います。高校生たちが自分の可能性に気付けるか否かは、周りの大人たちにかかっている部分が大きいのですから。