県大会を研究する'19

はじめに

 ドラマや映画、アニメは映像で魅せていく。視聴者に明示することで、世界に引き込む。絵だから、見てわかる。とても、わかりやすい。

 じゃあ、演劇は?

 演劇は、その映像を観客に想像させる。想像させることで、より奥行きを持たせることができる。その為に、演じる側はいくつもフックを用意して、観る側はそのポイントを探していく。それが心に引っかかったとき、衝撃が生まれる。

 これは商業演劇ばかりを観ていてもよくわからない。
 商業演劇はどちらかというと、ハリウッドの大作映画に近い。エンタメ性が高く、ストーリー性の高い、誰が観ても楽しめる作品(もちろん、それが悪いわけじゃない。それもアリだけど、演劇の可能性は他にあるし、映像系の舞台は演じるのにとても技術が要る。それをわからずに演じると、大火傷を負う危険性がある)。
 一方、小劇場演劇に目を向けると、演劇的な遊びに満ちている。

 台本も装置も照明も音響も演出も、すべては観客の想像力を引き出すための道具に過ぎない。
 観客の想像力を実際に刺激するのは、舞台上の役者の演技だ。
 観客もまた作品の一部として、役者たちとコミュニケーションを取る。そして、役者の心に観客が触れた瞬間、世界で最も優れた体感型アトラクションへと変貌する。自分の心が、作品と共鳴する。

 演劇もDVDやBlu-rayになったりするけれど、映像では本質的にわからない。
 映像として収められた演劇は、役者とコミュニケーションを取ることが不可能だからだ。観客の有り様とは関係なく、作品は進んでいく。

 演劇は能動的に「見る」ものではない。受動的に「観る」ものだ。
 YouTubeのように見ているだけでは「何コレ?」と面白さもわからない。観ている側も考える。慣れればなんてことないけれど、初めて自転車に乗ったときのようなコツが必要なわけです。
 観ていれば、いつの間にか演劇の楽しさに巻き込まれていくのです。

 だからどうか、劇場で演劇を観たあとは、一緒に観た仲間たちとディスカッションしてください。
 そうすることで、知らない世界が目の前に開けるはずです。

 演劇部員たちよ!
 自ら求めよ!!

近畿大学付属豊岡『花鳥風月~近高・青春篇~』

ラストシーン

 今回の県大会のダークホースであり、兵庫県ではなかったタイプのお芝居。自分たちの演劇の練習をそのまま舞台に上げてみたというような、ある意味、実験的な舞台。
 言葉を使った遊び、身体を使った遊びが紡がれていく。
 演劇部の練習として、凄く参考になるものがある。
 日々の練習に迷っている演劇部があれば、これをこのままやってみたらいい。そう思えるほどに。
 想像力っていうのは、演技の基本中の基本。言葉からの想像。身体からの想像。役者が想像をハッキリ持てないと、観客(相手)には絶対伝わらない。
 彼女たちの想像力を観客が捕まえたとき、どこか詩的な世界へと誘われる。キレイな世界だ。

 創部一年目の彼女らにとって、決意表明のような作品。最初にこんな作品をつくったことは、なんとなくわかる気がする。

県立伊丹『ミミズのみみず』

何となく不安定に感じる空間

 さてこれは、課題研究でミミズコンポストをつくることになった3人の物語である。
 ミミズコンポストというのは、小さな箱の中でミミズを飼い、ミミズに生ごみを処理してもらおうというものだ。とても有益なものなのだけど、ミミズは“気持ち悪い”。積極的には関わりたくない。
 だけど、彼女たちもミミズなのだ。
 幕開きから雨の中でひとりいる、印象的なシーンが挿入される。
 クラスのはぐれもの。そこを読み解ければ、淋しさや、孤独感など、彼女たちの日常が立ち上がってくる。それは誰しもが感じたことのあるものだろう。「みんなと同じでなきゃいけない」という一種の脅迫概念。
 そして、学校もまたコンポストなのだ。閉じた小さな世界。学校の正しさは、学校内でしか通用しないこともある。外から見たら少し、特異な世界。
 学校で否定されても、「(学校を)それは間違っている」と彼女を肯定してくれる家族がいる。最後には、暖かく、幸せな気持ちになれた。

県立武庫荘総合『コンビニ・アマゾン(アマゾンは川の方です)』

アマゾンにいる彼らと、日本にいる彼女ら

 あり得ない非日常を描くのも、演劇の表現手法のひとつだ。
「もしも、日本のコンビニが突如ブラジルのアマゾンに瞬間移動したら?」
 そんな演劇的な遊びをそのまま作品にしたのが、この『コンビニ・アマゾン』。理屈は何もない。SFじゃなくて、ファンタジーとも言える。単にあるコンビニとアマゾンが入れ替わったシチュエーションでのドタバタを描く。
 どうしてこうなったのか? と、コンビニの店長、アルバイトの店員、応援として駆けつけた外国人、常連客のおじさん、たまたま居合わせたOL、それぞれの背景が掘り下げられていく。非科学的でおかしい考察。
 観客の脳裏には、アマゾンの奥地にぽつんと立つコンビニが想像される。それは、役者の熱意によってだ。役者の信じる力が、嘘を本当に変えてくれる。

 どんな作品も嘘には違いない。そこはピッコロシアターの舞台上で、コンビニでもアマゾンでも(学校やバス停、その他の場所でも)ない。それを本物だと観客に思わせるのは、役者の演技力だ。演技力が作品をつくる。
 演技力と書くと、「私たちと違う」と思われるかも知れない。
 でもそうじゃない。役者がその嘘を楽しんでいるかどうか? その嘘で遊べているかどうか? そこがポイントだと思う。
 逆にいくら演技が上手くても、独りよがりはいけない。内に閉じてしまっていては、観客に「面白くない」のレッテルを貼られてしまう。

 演劇は外に開いた遊びでなければ、成立しない。

六甲学院『Bを待ちながら』

バスを待つ部員たち

 異様な重さに包まれる。
 照明ばかりが「暗い」ではなく、「重い」と感じる。そこに(台本や演出としての)軽さが加われば、余計に空間は重くなる。
 これは、演劇のコンクールで選ばれなかった者たちの物語。

 演劇のコンクールは難しい。
 本来、演劇には勝ち負けはない。選ばれる理由にスポーツのような明快さはない(ことも多々ある)。
 仲間たちと一致団結し、その目標へ向かえば向かうほど、選ばれなかったときの悔しさは大きい。審査員の評や台本に愚痴を言いたくなるのも、そこに勝ち負けが生まれてしまうからだ。

 台本通りにセリフをただ読んでも、この重さは生まれない。台本にそんな魔法はない。
 この異様な重さは、今の六甲学院にしか表現できないかもしれない。作品上の悔しさは、彼ら自身の悔しさでもあるから。中高一貫の彼らは、他の誰よりも先輩たちが近畿大会へ行けなかったことを胸に刻んでいる。仲間で共有している共通体験・想いそのものが、この作品の核をなしている。それが嘘を現実に見せ、重さを生んでいるのだ。
 その役者たちの間と照明・音響の連携で、作品上の時間が流れていく。時間経過を現すのに暗転を使うことがあるが、そんなことはしない。ただ、少しの変化を入れることで、時間経過を明示する。
 一体、彼らは何時間、バス停で佇んでいたのか……?

東播工業『ゲームオーバー』

夜になりつつある部室

 人は、見ているようで、案外見ていないものだ。
 ゆっくりと、照明が夕方から夜へと(60分の間に)変化しても、その変化には意外と気付かない。気付いたときには「もう夜」になっている。そんなもの。だから逆に、時間経過に絡めた演出もできたりする。

 やりたいことをすべてやられた気がする。
 最後の大会。「最後」というのは、あらゆる想いが集結しやすい。「クラブを立ち上げた理由」、「クラブに入った理由」、「大会で負けたこと」等々。部員それぞれに(重い軽いは別として)想いがある。
 演劇は人を観るのだ。他の何よりも、人を描くことに優れている。
 個々のドラマを持って、最後に心をギュッと掴まれた。

おわりに

 あの県大会から、3ヶ月以上──。

 「お待たせしました」以上に、忘れてしまったことが沢山あります。あの後にも、他の演劇を観たことも影響してます。
 本当は書きたい作品は他にもあったのだけど、覚えていないところも多く……💦

 さて。
 これからやって来る春は、隠れた高校演劇シーズンです。県大会や近畿大会、全国大会よりもレベルの高い演劇を観られるチャンスです。

 淡路支部のみなさん、是非、3月は一緒に観劇に行きましょう!