アイフェス!!2016へ行ってきた

全国大会より面白い!?

チラシ

 ここ数年、私が注目しているイベント、それが『アイフェス!!』。
 そして、淡路の演劇部のみんなに、一度は感じて欲しいのも、この『アイフェス!!』。だって、『アイフェス!!』にしかないものがあるから。

 毎年3月下旬、AI・HALLで行われる『アイフェス!!』は、伊丹市の中高演劇部が中心となる演劇祭。
 参加する高校に限って言えば、秋のコンクールよりもこのアイフェスに力を入れてるんじゃないか?って思うくらいの意気込みを感じる。

 きっとそれって、アイフェスが素敵だからに違いない。
 毎回満席の客席と、観てくれている4人+1人の関西演劇人。演劇専用のAI・HALLを、自分たちの思うがままに使える時間。プロのスタッフとの距離も、コンクールより断然近い。
 なによりアイフェスの進行をつとめる司会や会場スタッフは、自分たちの直接の先輩たちがメインなのだ。

 ここで生まれる作品が、その年観た高校演劇の中で“ナンバーワン!”なんてことも多々あったりする。

 そんなアイフェスの様子を、少し紹介します。

アイフェス!!とは?

 『アイフェス!!』は伊丹市内の中学・高校の演劇部がそれぞれ自信作を上演する、年度最後の一大イベントです。
  『アイフェス!!』は、時間や使用機材に制限の多いコンクールや文化祭などでの上演とは違い、実際の舞台での稽古時間を十分に取り、自分たちの表現したい ことを実現するために、プロのスタッフとともに、実際に劇団が劇場入りしてから行う過程を経験してもらえることが特徴です。
 演劇を志す若い世代に、芝居づくりの面白さを実感してもらうとともに、発表会やコンクールではなく、「公演を行う」という意識を持って作品づくりに取り組んでもらうことが、このフェスティバルの狙いです。

 今年のパンフレットからの引用。

 なかなかこんな機会って、演劇部に属していても「無いッ!」って感じの、大盤振る舞い。懐の深さが感じられる。

 そもそもコンクールの舞台スケジュールってアリエナイ。
  例えば兵庫県大会だと、舞台練習を出来る時間はたったの25分!その間に、舞台設営、シューティング、ボリュームチェック、場当たりなどなど……上演に必 要なことすべてを済ませないといけない。もちろんリハーサルなんて出来ない。ほとんどぶっつけ本番。プロも真っ青の現場(かも知れない)。
 「舞台稽古の時間が十分にある」なんて、ごくごく普通のことだけど、凄いことに思えてしまう。

 そんなアイフェスに参加するのは、上の通り伊丹市の中学・高校の演劇部。
 西中・南中・松崎中・市立伊丹高・県立伊丹高・西高・北高の7つの演劇部に加え、今年は特別参加校としてコンクールで近畿大会に出場した、県立御影高を合わせた8校8作品の上演。

AI・HALLの舞台

 AI・HALLは、どちらかと言えば小劇場の分類。
 コンクールでは緞帳があるホールで緞帳を使うのが一般的だし、それが時間計測の一つの目安になっている。けれど、AI・HALLには緞帳がない。緞帳がなくなると、開幕や終幕の演出が違ってくる。

 そしてアイフェスでは、観客は上演ごとに必ずホール外へ退出。これが決まり事。上演と上演の間は長めに取られ、その間に上演校は舞台設営。
 次の上演の10分前にもなれば、開場待ちの行列。観客は毎回毎回、並んでホールに入場する。
 毎回入場するっていう行為が、「これからどんな作品が上演されるんだろう?」というドキドキ感、ワクワク感に繋がってるから不思議なものだ。

 満席が予想される上演は、通常のイスに加えて、箱馬に座布団の特別席が用意される。
 その席でかぶりつきで観るのもおすすめ。普通の劇場ではアリエナイ席だから。

県立伊丹はどうなった?

 今回のアイフェスで気になっていたのは、やっぱり県立伊丹。
 そう。前回夏に取材した、あの演劇部。
 残念ながら秋のコンクールで観ることは叶わなかったけれど、どんな作品をつくってきたのか?

 タイトルは『ラティメリアは太陽をのぞむ』。

 ホールへ入場すると、そこにはバス停。下手寄りに、屋根付きの待合所がある。
 緞帳のないAI・HALLは、上演される作品たちも小劇場チックなものが多い。コンクールとは、別のつくり方、見せ方をしてきたりする。でもそれは、コンクールよりも遙かに自由っていう側面が大きいかも知れない。
 客入れの音楽を聞きながら、“どんなお芝居がはじまるんだろう?”と、舞台を眺める。

 完全暗転からの幕開きは、なぜかすーっとお芝居に引き込まれる。

 先に言っちゃうと、ちょっとがっかりしてしまった幕開き。
 それはお芝居の質とか演技のレベルとか、そういったことに関係なく、出てきた登場人物がOLだったから。この作品は、生徒による創作台本なのだけど、やっ ぱり台本って自分の身を削って書くもの。だから、経験したことのないものは、なかなか書けない。大人の世界は、高校生から見て想像になってしまう。私自 身、彼らにしかつくれないスレスレなモノを期待していたりする。
 でも、その“がっかり”は、違っていたことにすぐ気づくことになるのだけれど。

 そんな幕開きの話をもう少し続ける(笑)。
 今回の幕開きは、五ノ井先生の率いる演劇部では珍しい幕開きだった。

 昔、キャラメルボックスがよくやっていたような(もしかしたら、今もやってるのかもしれない)。
 雨の降る中、出てきたOLは、ひとり語りながらバス停へと向かっていく。この“語り”は、ナレーションもしくは説明であって、小説には必要だけれども演劇には必要というわけではない。観客にとってはわかりやすいけれど、わかりやすすぎる(語りすぎる)と観客の想像力を削いでしまう。
 けど、そんな“演じることの難しさ”を感じさせないくらい、面白かった。

 そのOL──役名は「お姉さん」──を演じていたのが、そう、前回密着したたまご班の班長、たまごだった!

 会社で働くことや日々の愚痴を言いつつ、バス停へやって来たお姉さん。しばらくして、高校生たちがやって来て、この物語が動き始める。
 お姉さんのひとり芝居は、観客をお芝居の世界へ引き込むための掴みだったのだ。

 お芝居を観て、どんな感想を抱くのか?それは観客の自由。そして、どこを観るのかも自由。映画のように視界をコントロールすることは、お芝居には出来ない。観客の心に“何かを残したい”とつくる側は思っているけれど、うまく残せるとも限らない。
 この記事は、アイフェスから2ヶ月も経って書いている。感想もまとめていなかった。そのことには反省しかない。いや、後悔もある。忘れて書けないことも多々あるからだ。それだけの時間を経てしまったから、心に残っていることしか書くことが出来ない。
 お芝居を観るのは一度きりだ。映像作品のように二度目はない。
 あくまで私的な感想に過ぎないと断った上で、『ラティメリアは太陽をのぞむ』に戻ることにしよう。

 『ラティメリアは太陽をのぞむ』とは、何だったのか?と問われると、「セカンドチャンス」と今は答えるだろう。お姉さんのセカンドチャンスはあるのか?
 そう。バス停へ来た高校生たちの中に、高校生の頃の自分。
 合唱部の仲間たちと、合唱部を辞めていった山田。あのとき、なぜ山田は合唱部を辞めたのか?

 バスは、来ない。

 高校生たちとお姉さんの距離が詰まってきた頃、やって来た不良っぽい二人組を演じていたのは、ラテとしーなだった。しーなはあの合宿から考えられないほど、ドシッとした演技をしていた。合宿から半年の経験が、女優として急成長させたのだろう。
 あの合宿では、ラテとしーなの力の差は歴然としていて、演技をしていても引き合っていなかった。けれど今は強烈なキャラクターを演じるラテに対して、引けを取っていない。
 ラテが演じていた有紗も難しいキャラクターで、登場してきたとき、お姉さんや高校生たちはもちろん、観客席も“ちょっと怖いお兄さん”だと少し距離を置いた。だから誰もが二人はカップルだと思ったのだ。実際はお兄さんと勘違いされるくらいの女子だったわけで、合宿のときよりもパワーがある演技だったのに、しーな演じる彼方も負けておらず、舞台上の空間を成立させていた。
 この有紗と彼方がやって来て、お姉さんと高校生たちが打ち解けていた空間が再び緊張し、それぞれが距離を取り出すのも面白かった。

 確か、彼方の危ないくらいの純粋さが、この作品の転換点じゃなかっただろうか。

 バスが去って最後の場面。
 高校生の頃の自分は、バスを降りて山田のもとへ駆けていった。あのとき、山田に聞けなかったこと。そのまま疎遠になってしまったことへの後悔。今度は後悔しないために。
 だから自分も一歩踏み出さないと。

 お姉さんは、バス停で待つ女性に勇気を持って近づいていく。
 そして唐突に──高校生たちとも盛り上がった──あの合唱部の掟を、その女性に仕掛けた。山田だと思っていたその女性は、……山田ではなかった。

 このラストシーンをやりたかったお芝居だと、私は感じた。
 その為に重ねた物語の時間。間の物語があったからこそ、成り立つラストシーン。
 観ていて楽しかったし、珍しくエンターテイメント。たまにはこんなお芝居も良いじゃない。でも、それよりも感じたのは、県立伊丹現チームの成長。
 高いレベルでのアンサンブルが成立しているように思えた。
 あの合宿を取材した身として、“大きくなったなぁ”というのが正直な感想だった。

チェーホフに熱い視線

 特別参加校の県立御影が演じたのは『わたしはかもめ』。顧問創作の作品で、ロシアの劇作家であるチェーホフの『かもめ』をモチーフとしていた。

 アイフェスではその日の上演がすべて終了すると、4+1人の関西演劇人による講評がある。
 コンクールよりも砕けていて、なんだかちょっと近い感じがする。

 その講評で、物議を醸したのがこの『わたしはかもめ』。

 ここにいたプロの演劇人たちは、それぞれがそれぞれの形でチェーホフに対峙した過去を持っていた。だから、一般の観客席とは違った目線でこの作品を観ていたわけ。
 特にアオイがラスト近くに発した「忍耐」という言葉が問題に。オリジナルの『かもめ』にも存在するセリフとのことだが、アオイが発するのは違うのではないか。云々。ちょっと激論。

 私は、その「忍耐」という言葉に引っかかりは持たなかった。

 この作品は端的に言うと、チェーホフの『かもめ』を演じようとする二人、アオイ(女子)とトベ(男子)の話。
 私自身引き込まれたのは、ホントにホントにラストだった。
 それは次のようなシーンだった。
 卒業式の日。卒業式が終わった後の教室で、トベとアオイは二人で『かもめ』の練習を始めた。途中からトベのみが──アオイがそこにいて、二人で練習している体で──パントマイムで練習を続け、アオイはその場を離れる。そして別のアオイを演じ始める。
 このときのトベのパントマイムがとても良くて、それを観ていると、急に二人の関係性や今のアオイ、これからのアオイについて想像させられていく。

 舞台上で見せてないもの、演じてないものを観客に想像させられるのは、演劇の最大の武器だと思う。

 このシーンに凄く引き込まれた話を御影顧問の福田先生にすると、「そこから『かもめ』ではない話がはじまるからかも知れない」みたいなことを言っていた。

アイフェス!!の凄いところ

 アイフェスの凄いところって、参加校すべてが舞台から逃げていないことかもしれない。

 アイフェスは演じる側としても、観る側としても、みんな真剣で、それでいて楽しんでる。AI・HALL内の活発度は、コンクールのそれを上回る。

 今回のアイフェスで印象的だったのは、6才くらいの女の子。その女の子がお父さんを引っ張って、何本も何本もお芝居を観ていたこと。
 1日に4本のお芝居を観るのは、実は結構しんどい行為。だけど、私もアイフェスではそんなしんどさは感じたことがなかった。あの女の子も、お芝居を観ることがよっぽど楽しかったのだろう。

 楽しませる仕掛けは、至る所にある。
 アイフェスを運営する大人たちも、そのことをよく考えているのだと思う。
 そして、上演される作品もどう観客へアプローチしていくか、それぞれの形でつくっている。ちゃんと観客ありきのお芝居になっている。

 そんなアイフェスは、今回で20才だそう。
 「1996年にはじまった」ということは21回目?当然、私の現役時代にもやっていたわけだけど、こんな素敵なイベントがあるなんて、微塵も知らなかった。
 20年続いている。続けていることには、頭が下がるばかり。
 私もチャンスがあれば、こんなイベント、淡路支部でもやってみたいけどね。

 淡路支部のみんなにも、このアイフェスの雰囲気を、肌で感じてもらいたい。知らない世界がそこに広がっているはずだから。

 今年度のアイフェス、一緒に行ってみようかな?って人は随時募集中です