物語を“つくる”ということ

物語を“つくる”

今回のSpring Stageでは、3本の創作作品が上演された。しかし、物語を“つくる”とはどういうことだろう?そこで重要になるのは、創作者が“なにを伝えたいか”という想いである気がする。

お芝居をおおまかに二分すると、エンターテインメントであるか、そうでないかになるのではないか?と感じている。観客を楽しませることに主眼を置いたものか、そうでないものか。映画で例えるなら、ハリウッド的な映画か否かと言えるかも知れない。
ここ数年、淡路支部で創作されたお芝居は、全てエンタメだ。
それが悪いということはもちろんない。しかし、それ以外の作品に挑戦して欲しいと思うのだ。余りにも狭い視野に物語が囚われすぎている。

ちなみに、淡路支部で上演され私が観たエンタメ系の創作作品の中で最高傑作は、1997年に洲本高校演劇部(現在は廃部)が上演した『NOTE』だ。顧問創作なら1999年に洲本実業高校と洲本高校の両演劇部合同で上演した『二年二組、青春…わが愛』だろう。

もし両作とも、台本を読みたい!という淡路支部の人がいれば、私まで連絡ください。
『二年二組、青春…わが愛』に関しては、洲本実業高校演劇部の部室にDVDもあります。

お芝居は人のこころを伝えることに向いている。
生身の人間が、観客と同じ空間で演じている。それが、映像作品にないお芝居のアドバンテージだ。時として役者の発する台詞が、観客のこころに突き刺さる。不思議だが、映像作品では得られない観客としての感覚。その突き刺すものは、作品により鋭利な刃物だったり、錆び付き痛々しいものだったりする。

さて。

今回のSpring Stage 2017で上演された創作作品たちは、その“なにを伝えたいか”という重点がどれもちゃんと置かれていなかったのではなかろうか。そこには、台本の執筆段階でも、実際にお芝居をつくっていく稽古場や演出からも、触れられていない感じだ。
台本の執筆に関してもう少し言及すると、“起承転結のあるキレイな物語”=“ドラマ”を書こうとしすぎている節がある。その為に、演劇的な視点は忘れられている。

洲本実業『ひとりぼっちのラーメン』

ラーメン屋を畳む決心をした店主のもとにラスト、TV取材を申し込む電話がかかってくる。つまり、「これからの未来が開けた」ということが一番言いたいことなのだろう。
残念なのは、店主の未来が開けたことと、やって来てラーメンを食べたお客さんに何の接点もないことだ。そのお客さんが来なくとも取材の電話はかかってきたことになる。ただ単に店主を独白させる為だけに、お客さんが登場している。
人が交流するということは、お互いに影響を与えるということだ。
考えなければならなかったのは、この人たちが出会うことにより“何が変わるのか?”ということだったろう。
そして、大切なのは最後の電話の内容ではない。電話を受けた“店主がどう思うか”だ。その店主の新たな心持ちを観客へ伝える仕掛けをどうつくるか?ということは、必ずしも電話でなくてよかったことになる。

淡路三原『PM3:40』

放課後の部室でプリンを食べた犯人捜しをする。
もっとも言いたこと、この作品の山はプリンの賞味期限が切れていた、と台詞を発するところだろう。しかし、問題がある。その事実は、舞台上よりも観客の方がいち早く察しているということだ。ということは敢えて台詞にする必要は全くなく、“あー。やっぱり”と腑に落ちる見せ方をつくる方が、観客としては楽しいのだ。
プリンを食べた犯人捜しは、高校生としてはありがち(高校生の日常と言い換えてもいい)だが、外野から見たら滑稽なもの。もっと滑稽に見せるためにテンポ感を大切にしたり、「お芝居だから」と割り切ってご都合主義的な演出があってもよかったかも知れない。
また推理をしながら人間関係を壊すように引っかき回せば、それだけで一気に演劇的な作品になる可能性もある。おもしろおかしいながらも、人間性を観客に問うような作品にも行けたはずだ。

津名『桜が咲く頃に』

3つの中で一番展開が読めた作品かも知れない。展開が読めるということは、定番にハマっているということだ。
その中で観客のこころへ訴えかける為には、嘘から創作してはいけない。何もないところから出たものは、こころに響かない。自分の実体験から出た言動を、役者を通して観客にぶつけることで、そこに何かが生まれる。
例えば恋愛小説であっても、それは完全なフィクションではない。作家自身の経験か、誰かの経験を作家が吸収し、それを物語として再構成している。
ただ、誰かの経験を自分のものとし誰かに発信するということは、一朝一夕にはいかないことだろう。
もっとも簡単なのは、自分の経験や秘めたる想いを書くことだ。それを演じてもらうことだ。自分を仲間はもとより観客へさらけ出すというのは、とても恥ずかしいし苦しいことだ。しかし、その想いが唯一、観客のこころを射ることが出来る矢だと言っても過言ではない気がする。
もしかしたらそうしたことは書かれていたのかも知れないが、そうだとしたらもっとさらけ出さなければ届かない。

演劇への問いは続く

演劇の台本は自分の“想い”を書くことで成立する。ドラマを書くのではなく。最近、そう想うことが度々ある。

ある意味、ラブレターが形を変えたものかも知れない。
整った言葉(標準語)よりも、どんなにつたなくても自分の言葉を相手にぶつける方が、自分の想いが伝わることはわかるだろう。そこには相手への信頼も関わってくる。相手を信頼しているから言葉をぶつけられる。だから、観客を信頼して“想い”をぶつけるのだ

映画館で観る映画の感動と、劇場で観るお芝居の感動はまったく別のものだ。
同じお芝居でも、小劇場と大劇場でもまた違う。劇場が小さくなればなるほど役者と観客の距離は近くなり、その場の持つ熱量も凝縮されていく。つまり、大劇場はエンターテインメント向きであるし、小劇場は観客のこころを射ることに向いている。

かつて兵庫県大会で演出家の西田シャトナーはこう言っていた。「観客のこころをドライブするんや!」と。
確かに彼の演出するお芝居を観れば、納得する。ドライブされていることを感じるだろう。

お芝居にしか出来ないことを表現するには、劇場に出向き、それを感じるしかない。そのためには観るポイントを知り、感性を磨いていかなければならない
お芝居をつくるには、お芝居の研究が必要なのだ。

カメラの持参を忘れたため、公演写真はありません。すみません。